無駄な足掻きをしているという自覚は、ある。
早く自室に帰ればいいという、自分が片隅にいる一方で、帰りたくないなと足掻いている自分もいる。
なんとも優柔不断で、何とも臆病な、自分が嫌いな自分がいる。
現在時刻は、とうに太陽が沈んで、月が浮かぶ夜。
心なしか重たい足を、とぼとぼと動かして、深々と溜息をついて寮室に帰る。
キーロックを外す前に、一呼吸を置いて、扉を開く。
共用エリアに足を進めて、ふんわりと漂うチョコレートの香りに、動きが止まった。
「おかえり」
「………………ただ、いま」
キッチンに立っている男を、二度見する。
熱いわけではないらしい鉄板を、そのまま台に置いている男。
ざっと確認した所、洗われて干されているシリコントレーを三度見する。
「どーしたよ?」
「っ!」
呆然と立っていると、見たことのある歪な物体を口に放り込んで、がりがり噛み砕いている男。
何かを言おうと口を開いて、閉じて。
顔が赤くなっているのがわかる。
「……俺の」
「ん?」
「俺の、おやつ……だったのに」
そんなこと微塵も考えてなかったのに。
口から飛び出た取り繕う言葉は、予想以上に子供っぽかった。
死にたい。
がりごりと歪なチョコレートを噛み砕き、飲み込む。
震える言葉を紡ぐ男の、不機嫌な言葉に隠れた羞恥心は知らないふりをした。
耳が真っ赤に染まっているが、気づかないふりをしたほうが拗れないだろう。
ぶるぶると物理的にも体を震わせ始めた男に、苦笑が出てきた。
「あー、悪かったよ。腹が空いてな」
そんなことを言いながら、最後の一欠けらを口に放り込む。
ごりごりと最後の美味しくないチョコレートを、名残り惜しむような気分で飲み込む。
その様子を見ていた男が、いつもの無表情を投げ捨てている。ぶすりと不満そうな顔になっていく様が、面白くて仕方がない。
「悪いと思ったんだぜ」
実は一欠けらどころか、微塵も思っていない言葉を口にする。
それを読み取った男の目が、冷え冷えと冷たくなっていくのが、面白い。
……どうしてわかるのだろうか。
お互いに、それをずっと不思議に思いながら、日常を過ごしてきた。
「だから、代わりを用意しといたぜ」
台に置いていた鉄板から、クッキーを剥がして、空っぽになった皿に入れる。
あいにくと、クッキーを手製で作る時間はなかった。
なので、市販のクッキーを代用した。
チョコレートのテンパリングは、おそらく相手の知らない電子レンジの時短方式。
クッキーを溶けたチョコに潜らせて、鉄板の上で冷ますだけの、簡単なチョコ掛けクッキー。
「簡単で悪いけどよ」
「…………どこが」
大股で近づいていた男が、不機嫌そうに吐き捨てた。
近づいて、皿の中のクッキーを見る。
キラキラと美しい艶のチョコレートがかかったクッキーに、心の中のプライドが複雑骨折でもしたような、表現できない感情がふつふつと湧いてくる。
菓子作りに関して、サイファーの方が上であることは事実だ。
料理だってサイファーの方が上だ。地味にこだわる男だから、面倒嫌いの自分より技量が上がっているのは理解している。
それを競うものではないことも、理解している。
……でも悔しい。
もう少し手を出していたら、もっと綺麗なチョコレートを、この男の口に突っ込めたのだろうか。
……リノアの言うことを、聞くんじゃなかった。
告白にはチョコレートだよ!と自信満々に言われた日が、凄く遠く思える。
何とも言えない感情を発露できず、ぷるぷる震える指を呼ばす。
皿の上に置かれた、ひんやりと冷たいクッキーを手に取って、口に入れる。さくっとしたクッキーの感触よりも、とろりと舌触りのいいチョコレートの溶け心地。
……最悪だ。
自分の作ったあの歪なチョコレートを、全て腹の底に収めた男が憎たらしい。
気付かないふりを、してくれたって良かっただろうに。
わざわざ取り出して、中身を見て、挙句それを食べてしまったのが本当に憎たらしい。
全部全部、わかってやってるくせに。
気づかないふりをしているのが、余計に腹が立つ。
感情を、言葉にするのは苦手だ。
関係性を、明確に言葉にするのは苦手だ。
……だって、あんたをなんて表現していいかなんて、わからない。
昔馴染みで。
気が付いたら隣にいて。
一緒にガーデンで過ごして。
競い合って。
戦って。
殺しあって。
捕まえて。
部下にして。
一緒に同居していて。
……なんていえばいいのだろう。
スコール・レオンハートに、サイファー・アルマシーとの関係を説明するのは、難しい。
気付いたら二枚目に手を伸ばして、口に放り込んでいた。
噛み砕く甘味が、疲れた脳にじんわりと効く。
「それで」
もう何も考えずに、もぐもぐとクッキーを食べていると、楽しそうな声がした。
堪えきれない笑いを滲ませた声に、思わず睨みつける。
その睨まれたことさえ楽しいと笑う男に、本当に腹が立って。
「お前は本日。どんな俺様をご所望で?」
文句を口から出そうとした瞬間、口を閉ざす羽目になった。
口の中に残った、クッキーとチョコレートの甘味が、嫌味なほどに思考の邪魔をしてくる。
「どんなって」
どんなサイファーをご所望かなんて言われても。
言われても。
「……全部、寄越せよ」
何もかも、全部寄越せ。
昔馴染みのサイファーも。
一緒に過ごした学生のサイファーも。
競い合ったライバルのサイファーも。
戦って殺しあった魔女の騎士としてサイファーも。
捕まえて部下にした補佐官のサイファーも。
同居人のサイファーも。
そして何よりも。
――――恋人の、あんたも。
全部全部。何もかも。
俺に寄越せよ。
「報酬は、渡しただろう」
震えた声を、悟られないことを祈った。
祈りが届かないことなんて、とうに知っているはずなのに。
目の前の男は、二度瞬きを繰り返して、鮮やかな悪童の顔で笑ってきた。
「そりゃぁ、お安い報酬で」
「今を時めく英雄の手作りだぞ。ありがたいだろうが」
「はっ」
くつくつと笑う男の指が、顎にかかった。
それに抵抗しないで、目線を合わせる。
宝石のような瞳の奥に煌めく、美しい獣の光を見た気がした。
「……お安く、請け負ってやるよ」
降り注ぐ口づけに抵抗しない。
むしろ隙間を開けて、侵入した舌を絡めて、受け入れる。
ぞくぞくとした快楽に震える身体を支えるために、獣の首に両腕を回した。
言葉になんて絶対にしない。
告白なんてしようとした、何日か前の自分なんて、放り捨てた。
全部何もかも。
悟って知っている癖に、黙っている男が憎たらしくて。
……あんたから言うまで、絶対に言ってやらない。
これから始まる楽しい日々を思って、スコールは腕の中の男を捕まえる。
捕まった獣は、腕の中の獲物を、楽しそうに見つめていた。

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