終わらない。
自分でフラグを立てたつもりはなかった。
だが、現実問題として。仕事が終わらない。
「スコール?どうかしたのか?」
「……いや」
書類仕事が苦手だからと、逃げ続けたツケを払っているゼルが、声をかけてくるが答えられない。
終わらない。
どうして。
冷蔵庫に眠らせた物体と、サイファーの帰還予定時刻が、脳の中でぐらぐら揺れている。
見つからないようにと祈る事さえ、きっと無駄だとわかっている。
お互いにお互いのタイミングが悪い事なんて、何年も前から知っている。
物心ついた時から、知っているんだ。
―――――――― ▼ ――――――――
……なんで、これを使ったんだか。
菓子作りに最適と謳い文句のシリコントレーから、中に沈んでいる歪な物体をサイファーは外していく。
小ぶりのドーナッツ型の窪みを押す。あると思わなかった、リング状の板チョコレートと化しているそれを、丁寧に外して皿の上に置いていく。
それを発見した時に、サイファーは思わず笑ってしまった。
このドーナッツ型のシリコントレーは、電子レンジやオーブンで簡単にドーナッツを作るための物だ。チョコレートを使うとしても、仕上げに使う事しか想定していない。
それが、チョコレートの型として使われている。
何してやがるんだという文句も、何やってんだかという呆れも、全て吹き飛ぶほどに、――――面白い。
「どんな顔して作ったんだが」
くつくつと堪えきれない笑いを、噛み殺して。
サイファーは恐らく失敗作の烙印を押された、チョコレートを全て救出した。
綺麗な形に固まったり、歪な形になっていたり、バリエーション豊かなチョコレートの小山。
その、皿の上に積まれたチョコレートは、其々が色も違っている。
サイファーから見ると、このチョコレートが失敗した理由は、用意に想像がついた。
「あいつ、温度を間違えやがったな?」
チョコレートのテンパリングは、本格的な手法で素人が手を出すと、だいたい失敗する。
カカオの割合と溶かす温度に気をつけて、湯煎するのが難しい。
綺麗にチョコレートが溶けたとしても、油分が綺麗に混ざってないと、失敗だ。
「……ふーん」
チョコレートを1つ摘む。
美味しそうに見えない。
型の選択をミスして、歪な形。
色も模様もちぐはぐな、市販品では絶対にありえないチョコレートを、無造作に口に放り込んだ。
油分が混ざり切らず、白く濁った部分のあるチョコレートは、想像通りに舌触りが悪い。
ゆっくりと味わいながら、サイファーの頭に横切るのは、今日の日付。
〝恋人にチョコレートはいかがでしょう?〟という謳い文句。
菓子特集の雑誌コーナーでよく見かける言葉が、ふと思い出せる。
「……はっ」
けして、美味しいとは言えない。
かといって、不味いというわけでもない。
そんな手作りのチョコレートを、無断でもう一枚、食べてしまう。
後で文句を言われる気もする。
けれどきっと、この行動は間違っていないと、サイファーは悟ってしまう。
「恋人に、チョコレート。……ね」
がりっと噛み砕いたチョコレートは、ひたすらに舌触りが悪かった。
好きだ。
愛している。
付き合ってほしい。
そんな言葉を言ったことも、言われたことも、記憶にはない。
ただ、スコールに回収されたサイファーが、今の生活に落ち着いた頃の話。
『サイファー』
そもそも、あの女と付き合っていると思っていた。
二人っきりで話している姿を見て、そうだと思っていた。
けれど、あの女は振り返ってこちらを見ると、美しい笑みを浮かべて去っていき。
スコールがこちらを見て、無表情で見つめてきていた。
あの表情の意味を、理解できないまま。
自室で寝転がって雑誌を読んでいる時に、上に乗っかられた。
『サイファー』
そっと囁かれる言葉に込められた感情を、悟る事は容易だった。
無表情なのに鋭い眼光。
その奥にある、浮かれたような熱を読み取るのは、難しい事ではなかった。
『サイファー』
ただ名前を呼ばれるだけで、何をして欲しいのか理解することは、サイファーにとって日常だった。
スコールは多くを語らない。
多くを言葉にしない。
ただ頭の中でこねくり回して、外に出力せず終わる事が多い。
あの魔女大戦の後。
その悪癖は緩和されているが、なぜかサイファーに対しては治っていなかった。
あんたならわかるよな、と目で訴えてくる無言の抗議に、舌打ちしたことも数回ある。
だからその日も、言葉にしない言葉を汲み取って、そのまま手を出した。
手を出すことに抵抗はなかった。
何一つ、罪悪感を抱くこともなかった。
服を剝ぎ取って、下ごしらえを自分でしたであろう身体を、美味しく食べてしまった。
浮かれたような熱の中。
お互いに名前を呼ぶことさえなくて、ただただ体を重ねて一夜を過ごした。
それが、たぶん切っ掛けだった。
付き合っているわけではない。
けれど、付き合っていないとは言い切れない。
お互いが言葉にしない曖昧な境界線上だ。告白文化がない国もあれど、バラムには告白文化が根付いているから、余計に曖昧な関係の上に二人はいる。
――――いたはず、なのだが。
三枚目のチョコレートを齧り、砕く。
何度も思うが、サイファーにとって美味しくない。失敗してるとわかるチョコレートは、手作りにあふれた味と言える。
けれど、それだけだ。
自分ならもっと、上手に作れる。
「……………………」
三枚目を嚙み砕いて、残りのチョコレートが乗った皿にラップをかける。
そのまま、冷蔵庫に入れて、一息をつく。
時計を見るが、仕事が長引いているのか。チョコレートの製造人は帰ってくる気配がない。
使っていないふりをして、どう見ても使われている調理器具を手に取って、サイファーは目的の材料に手を伸ばした。

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